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夢野久作

「梅津只圓翁伝」
翁は九州に帰って後、そうした惨澹たる世相の中に毅然として能楽の研鑽と子弟の薫育を廃しなかった。野中到氏(翁の愛娘千代子さんの夫君で、後に富士山頂に測候所を建て有名になった人)と、翁の縁家荒巻家からの扶助によって衣食していたとはいえ全く米塩をかえりみず。謝礼の多寡を問わず献身的に斯道の宣揚のために精進した。

翁の愛婿、前記野中到氏が富士山頂に日本最初の測候所を立てて越冬した明治二十六年の事、翁は半紙十帖ばかりに自筆の謡曲を書いて与えた。「富士山の絶頂で退屈した時に謡いなさい」というので暗に氏の壮挙を援けたい意味であったろう。その曲目は左の通りであった。
 柏崎、三井寺、桜川、弱法師(よろぼうし)、葵上(あおいのうえ)、景清、忠度(囃子)、鵜飼(うかい)、遊行柳(囃子)
野中氏は感激して岳父の希望通りこの一冊を友としつつ富士山頂に一冬を籠居したが、その時に「景清」の「松門謡」に擬した次のような戯(ざ)れ謡(うたい)が出来たといって、古い日記中から筆者に指摘して見せた。
「氷雪堅く閉じて。光陰を送り。天上音信を得ざれば。世の風声を弁(わきま)えず。闇々たる石窟に蠢々(しゅんしゅん)として動き、食満々と与えざれば、身心きょうこつと衰えたり。国のため捨つるこの身は富士の根富士の根の雪にかばねを埋むとも何か恨みむ今はただ。我父母に背く科(とが)。思えば憂しや我ながら。いずれの時かなだむべきいずれの時かなだむべき」
 この戯謡の文句を見ると野中到氏は両親の諫止をも聴かず、富士山頂測候所設立の壮挙を企てたものらしい。そうして只圓翁の凜烈(りんれつ)の気象は暗にこれに賛助した事になるので、翁の愛嬢で絶世の美人といわれた到氏夫人千代子女史が、夫君の後を趁(お)うて雪中を富士山頂に到り夫君と共に越冬し、満天下の男女を後に撞着せしめた事実も、さもこそとうなずかれる節があるやに察せられる。


「名娼満月」
ブラリと立出づる吹晒(ふきさら)しの東海道。間道伝いに雪の箱根を越えて、下れば春近い駿河の海。富士の姿に満月の襟元を思い浮かめ、三保の松原に天女を抱き止めた伯竜(はくりゅう)の昔を羨み、駿府から岡部、藤枝を背後(うしろ)に、大井川の渡し賃に無けなしの懐中(ふところ)をはたいて、山道づたいの東海道。


「二重心臓」
突然に叫び出した浴衣がけの若い男が一人、最前列の左側の見物席から、高い舞台の板張に飛付いて匍い上ろう匍い上ろうと藻掻(もが)き初めた。それを冷然と流し目に見た天川呉羽は、慌てず騒がず、内懐(うちふところ)に手を入れて、キラリと光るニッケルメッキ五連発の旧式ピストルを取出した。自分の白い富士額の中央に押当ててシッカリと眼を閉じた……と思う中(うち)に、
……轟然一発……。


「冥土行進曲」
翌る日は久し振り汽車に乗ったせいか、無暗(むやみ)に腹が減った。ボーイに笑われる覚悟で三度目に食堂に入っていると間もなく左手に富士山が見えた。多分今生の見納めであろう富士山が……。
  富士が嶺は吾が思ふ国に生(な)り出でて
       吾が思ふごと高く清らなる
コンナ和歌が私の唇から辷(すべ)り出た。他人の歌を暗記していたのか、私が初めて詠(よ)んだのかわからない。それ程スラスラと私の頭から辷り出た。辞世というものはコンナ風にして出来るものかも知れないと思うと思わず胸がドキンドキンとした。富士山は日本の大動脈瘤じゃないか知らん……といったような怪奇な聯想も浮かんだがコイツはどうしても歌にならなかった。


「暗黒公使(ダーク・ミニスター)」
顔は丸顔で……もしもし……顔は丸顔で髪は真黒く、鏝(こて)か何かで縮らした束髪に結って、大きな本真珠らしい金足(きん)のピンで止めてあったと云います。眉は濃く長く、眼は黒く大きく、口元は極く小さくて締まっていたそうです。額は明瞭な富士額で鼻と腮(あご)はハッキリわかりませんが……もしもし……ハッキリと判りませんが兎に角中肉中背の素晴らしい美人で、顔を真白く塗って、頬紅をさしていたそうで……非常に誘惑的で妖艶な眼の覚めるような……


「街頭から見た新東京の裏面」 ※杉山萠圓(夢野久作)
それはともかくとして、記者は江戸ッ子衰亡の事実を見たり、聞いたりする度毎に、あの隅田川を思い出さずにはいられない。否、あの隅田川の岸に立つ毎に、記者は、この河に呪われて刻々に減って行く江戸ッ子の運命を思わずにはいられないのである。
「富士と筑波の山合(やまあい)に、流れも清き隅田川」
と奈良丸がうたい、
「向うは下総葛飾郡、前を流るる大河は、雨さえ降るなら濁るるなれど、誰がつけたか隅田川ドンドン」
と昔円車(えんしゃ)が歌った隅田川――


「謡曲黒白談」
「ああ、それそれ、死んだ爺さんが謡い御座った、あの、それ……四方にパッと散るかと見えてというあれを」
富士太鼓ですか」
「それそれ、その富士太鼓――」
果然、富士太鼓は拙者の得意の出し物であった。

「今度は何を謡いましょう」
と尋ねて見ると、祖母は又もや涙を拭いながら、
「お前はあの富士太鼓を知っていなさるかの」
 と云った。自分は聊(いささ)か驚いて、
「今うたいましたよ、それは」
「何をば」
「その富士太鼓をです」
「ああ、その富士太鼓富士太鼓。妾はようよう思い出した。死んだ爺さんはそれが大好きで、毎日毎日謡い御座った。あれを一ツ」

「ああ、久し振りで面白かった。死んだ祖父(じい)様が生きて御座ったらなあ。それでは今度は富士太鼓を一ッつ何卒(どうぞ)」
 と云った。自分はとうとう死に物狂いの体で今一番富士太鼓を謡って、伯父伯母が帰らぬ内に這々の体で退却した。
そうして聴き手を択(えら)むべきものだと、この時つくづく感じた事であった。

謡曲中毒もここまで来ると既に病膏肓(やまいこうこう)に入ったというもので、頓服的忠告や注射的批難位では中々治るものでない。丁度モルヒネだの阿片の中毒と同じで、止めようと思ってもガタンガタンが四楽(しらく)に聞こえ、ゴドンゴドンが地謡いに聞こえて、唇自ずからふるえ、手足自ずから動き、遂に身心は恍惚として脱落し去って、露西亜(ロシア)で革命党が爆裂弾を投げようが、日本で政府党が選挙に勝とうが、又は乗り換えを忘れようが、終点まで運ばれようが委細構わず、紅塵万丈の熱鬧(ねっとう)世界を遠く白雲緬※(めんばく)の地平線下に委棄し来(きた)って、悠々として「四条五条の橋の上」に遊び、「愛鷹山富士の高峰」の上はるかなる国に羽化登仙(うかとうせん)し去るのである。


「鼻の表現」
中でも天狗の原産地たる吾国では、到る処の高山深谷に住んで、各(おのおの)雄名を轟かしております。先ず天狗道の開山として、天孫を導き奉った猿田彦の尊の流れとしては、鞍馬山の大僧正が何といっても日本天狗道の管長格でありましょう。九州では彦山の豊前(ぶぜん)坊、四国では白峯の相模坊、大山の伯耆坊、猪綱(いのつな)の三郎、富士太郎、大嶺の善鬼が一統、葛城天狗、高間山の一類、その他比良岳、横川岳、如意ヶ岳、高尾、愛宕の峯々に住む大天狗の配下に属する眷属(けんぞく)は、
 中天狗、小天狗、山水天狗、独天狗、赤天狗、青天狗、烏天狗、木っ葉(こっぱ)天狗
といったようなもの共で、今日でも盛んに江湖専門の道場を開いて天狗道を奨励し、又は八方に爪を展(の)ばし、翼を広げて、恰(あたか)も大道の塵の如く、又は眼に見えぬ黴菌の如く、死ぬが死ぬまでも人間に取り付いております。