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太平記

「太平記」
清見潟を過給へば、都に帰る夢をさへ、通さぬ波の関守に、いとゞ涙を催され、向(むかひ)はいづこ三穂(みほ)が崎・奥津・神原(かんばら)打過て、富士の高峯を見給へば、雪の中より立(たつ)煙、上なき思に比べつゝ、明(あく)る霞に松見へて、浮嶋が原を過行ば、塩干(しほひ)や浅き船浮(うき)て、をり立(たつ)田子の自(みづから)も、浮世を遶(めぐ)る車返し、竹の下道(したみち)行なやむ、足柄山の巓(たうげ)より、大磯小磯を直下(みおろし)て、袖にも波はこゆるぎの、急(いそぐ)としもはなけれども、日数(ひかず)つもれば、七月二十六日の暮程に、鎌倉にこそ着玉(つきたまひ)けれ。

又同(おなじき)七日の酉の刻に地震有て、富士の絶頂崩るゝ事数(す)百丈也と。卜部(うらべ)の宿祢、大亀(だいき)を焼て占ひ、陰陽(おんやう)の博士、占文(せんもん)を啓(ひらい)て見(みる)に、「国王位(くらゐ)を易(かへ)、大臣遭災。」とあり。

※「太平記」(国民文庫刊行会)より