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瓦版

「富士山出水之図」
天保五年甲午四月、七日夜より駿河の国富士郡(ごほり)のほとり殊(こと)の外大雨降出し同八日益(ますます)大風雨にて午の刻ごろより不二山震動いたし頻(しきり)に暴雨滝のごとく不二の半腹(はんふく)五合目あたりより雪解水一度にどつと押出し萱野にて水筋三道(たう)に相分れ一筋の水巾凡(およそ) 半里ほどづつ有之皆泥水にて裾野村々へおし出し未刻ごろにハ水勢いよいよ盛んになり小山の如くなる大浪(なみ)打来りて裾野の在家村々の建家皆押流し老若男女のともがら家の棟に取付(とりつき)或ハ木の枝にすがり付などして声を限りに泣喚(さけ)ぶ牛馬などハ繋(つなぎ)し侭(まま)に流れ来り溺死する者その数をしらず既に大宮の町並家毎に残らず流れ富士御林(おはやし)の諸木長さ二丈三丈差わたし四五尺ほどづつも有(ある)大木根こぎになりて流れ来り巌石を転(まろば)し小石を降し震動雷電おびただしく今や天地も反覆するかとおそろしく流るる男女の泣さけぶ声す地獄の呵嘖に異ならず都(すべ)て死人おびたたしく水筋流れし通(とほり)ハ七八里其巾の広さは三里に余り彼是(かれこれ)十二三里か間■々(びやうびやう)たる荒地となりぬ
斯(かか)るめづらしき事ハまた有べくともおぼえず
終(つい)に一紙にしたためて後世に残ししらしむるのミ

※天保5年(1834)
※東大、小野秀雄コレクション