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鈴木三重吉

「日本を(長編歴史童話) --ペリー艦隊来航記--」
来年再び来るのは来るのですが、ともかくこゝで一たん日本の領海から撤退するといふことは、日本人に取つては怖らく当面多少の安神になり得たばかりでなく、四艘の艦隊そのものが、すさまじく浪を衝いて発程する光景それ自身も彼等には珍らしく愉快だつたに相違ありません。浦賀の岬なぞでは、兵隊たちがどん/\と砲台から駆け出して、ぎつしり立ち集つて見てをります。中には丘の上まで走り上るものもあり、艦隊がだん/\と沖合に遠ざかると争つて船で漕ぎ出してまで見物しました。見る/\うちに何百艘といふ船が海上を掩うて動いてゐたやうな有様です。艦隊は間もなく、富士の高い峰を後にして、すつかり大洋の真中へ出てしまひました。

翌日になりますと、風も止んで平穏な日和になりました。本土の陸地を見ますと、富士山はすつかり真白に雪を被つてをり、あたり一帯の低い山々も頂上には寒さうに雪がつもつてゐます。手近の岸の丘なぞも、この前真つ青だつたのにくらべて、全で別ものゝやうに赤茶けてゐます。甲板へ出ると肌を裂くやうな風が絶えずびゆう/\と吹き通しました。