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源平盛衰記

思きや富士の高根に一夜ねて雲の上なる月をみんとは

法皇は新熊野へ御参詣有べきにて、兼て御車を門外に立させ給ひ、急ぎ御出有けり。即新熊野にて移花進せさせ給けり。入道殿より御文有とて捧之、披て叡覧あり、沙金千両、富士の綿千両の送文なり。御布施と覚たり。最便なくぞ有ける。法皇は彼送文を後さまへ投捨て、鳴呼験者しても、身一はすぐべかりけりと仰有けり。

烏帽子子に手綱うたせて筒手に把、御使にも不憚、弟の四郎に向て云けるは、是聞給へ、人の至て貧に成ぬれば、あらぬ心もつき給けり、佐殿の当時の寸法を以て、平家の世をとらんとし給はん事は、いざ/\富士の峯と長け並べ、猫の額の物を鼠の伺ふ喩へにや、身もなき人に同意せんと得申さじ、恐し/\、南無阿弥陀仏/\とぞ嘲ける。

道すがら様々やさしき事も猛事も哀なる事も有ける中に、駿河国富士の麓野、浮島原を前に当て、清見関に宿けり。此関の有様、右を望ば海水広く湛て、眼雲の浪に迷、左を顧れば長山聳連て、耳松風に冷じ。

斯しかば大場も終に首を延て参けり。源氏は加様に大勢招集て、足柄山を打越て、伊豆国府に著て三島大明神を伏拝み、木瀬川宿、車返、富士の麓野原中宿、多胡宿、富士川のはた、木の下草の中にみち/\たり。其勢二十万六千余騎とぞ注したる。

平家の方にも如形篝火を焼、夜も漸深ければ、各寝入て有けるに、夜半ばかりに、富士の沼に群居たりける水鳥の、いくら共なく有けるが、源氏の兵共の、物具のざゝめく音、馬の啼声などに驚て立ける羽音のおびたゞしかりけるに驚て、源氏の近付て時を造るぞと心得て、すはや敵の寄たるはと云程こそ有けれ、平家は大将軍を始として、取物も取敢ず、甲冑を忘れ弓箙をおとし、長持皮籠馬鞍共に至まで捨て迷上。

山内滝口三郎同四郎は、廻文の時富士の山とたけくらべ、猫の額の物を鼠の伺定やなんど悪口したりし者也。大庭に被召出たり。佐殿宣けるは、汝が父俊綱并に祖父俊通は、共に平治の乱の時、故殿の御伴に候て討死したりし者也。其子孫とて残留れり。我世を知らば、いかにも糸惜して世にあらせ、祖父親が後世をも弔はせんとこそ深く思ひしに、盛長に逢て種々の悪口を吐、剰景親に同意して頼朝を射し条は、いかに、富士の山と長並べと云しか共、世を取事も有けりとて、土肥次郎に仰て、速に首を刎よと下知し給ふ。実平仰に依て引張て出ぬ。

御門驚き思召て行者を搦捕んとするに、孔雀明王法験にこたへて、虚空を飛事鳥の如し。依之行者の母を召禁られければ、我故に母の罪を蒙事こそ悲けれとて、自参給たり。則伊豆の大島に流し遣されけり。昼は大島に行、夜は鉢に乗て富士の山に上て行けり。一言主重て、行者を被害べき由奏し申ければ、則官兵を被下被誅とせしに、行者の云く、願は抜る刀を我に与よとて、刀をとり舌にて三度ねぶりければ、富士の明神の表文あり。天皇此事を聞召て、是凡人に非ず、定て聖人ならん、速に供養を演ぶべしとて都に被召返。

さては駿河国浮島原の辺にては追付なんと思ひて、十七騎にて打て殿原々々とて、稲村、腰越、片瀬川、砥上原、八松原馳過て、相模河を打渡、大磯、小磯、逆和宿、湯本、足柄越過て、引懸々々打程に、其日は二日路を一日路に著、河宿に著にけり。尋れば案に違はず、大勢駿河国浮島原に引たりと云。正月十日余の事なれば、富士のすそのの雪汁に、富士の河水増りつゝ、東西の岸を浸したれば、輙く渡すべき様なし。

在原業平が、きつゝ馴つゝと詠ける三川国八橋にも著しかば、蛛手に物をや思らん。浜名の橋を過行ば、又越べしと思はねど、小夜中山も打過、宇津山辺の蔦の道、清見が関を過ぬれば、富士のすそ野にも著にけり。左には松山峨々と聳て松吹風蕭々たり。右には海上漫々と遥にして岸打浪瀝々たり。

田子浦を過行ば、富士高峯を見給に、時わかぬ雪なれど、皆白平に見渡、浮島原に著ぬ。北は富士たかね也、東西は長沼あり、山の緑陰を浸して、雲水も一也。葦分小舟竿刺て、水鳥心を迷せり。